空手の道は人の道

<人間形成としての極真カラテ>

「健全な肉体にこそ健全な心はやどる」という。まさに、その通りである。

健全な肉体、即ち健康は、我々人間にとって、何ものにもかえがたいものである。

ところが、ふだんから健康で、身体的に特に不自由も感じないですむ人々は、

そのことをとりたてて意識しないようだ。そして、いざ病気になったり、

年をとるにしたがって、健康であるということが、

人間にとってどれほど大切なことであるかを、いやおうなく知るのである。

このことは、精神についても同様である。いいかげんな心の持ち方では、

仕事でも勉強でも、決してよい結果は生まれない。

そして、強い精神力とは、健康な体であってこそ持ち得るのである。

この真理を、肝に銘じなければならない。とりわけ、現代社会では、

肉体にしろ精神にしろ、不健康がまんえんしているといっても過言ではないだろう。

我々の周囲には、実に様々な誘惑が待ち受けており、ともすれば、

その甘いワナにひっかかり、落とし穴におちていってしまう危険は、まことに大である。

そのような無意味で不健康な、悪の誘惑を断固としてはねのけ、

やがて来る将来に備えて学問にはげみ、身体を鍛えておくことこそ、

今の、そして、これからの青少年にとって、最も大切なことなのである。

そして、たくましく健全な精神と、どのような苦難にであっても

それを乗り越えてゆけるだけの頑健な肉体を、つくれるもの、

それは、現在のところ、極真カラテのほかにはない、そう断言しても、

いっこうにさしつかえないと信じる。

さて、空手を修行しようと思う人は、まず、誰でも、最初はただ、強くなりたい、

それだけが動機であり、目的であることであろう。

もちろんそれは人間にとって、特に若者にとって、まったく正しい希求である。

誰しも弱いものにはあこがれない。皆、強くなりたいという欲求を持っているものだ。

しかし、最初は単に空手が強くなりたい(なかには、ただケンカに強くなりたい)

その一心で一生懸命練習し、修行にはげんでいても、そのうちに、

知らず知らず自分に自信が生まれ、最初の目的など、

それほど重要には思えなくなってくる。

そして、ついには、心も落ち着き、何事に対しても強い忍耐力が生まれ、

物事を立派にやりとげるための努力を惜しまないようになるものなのである。

何故なら空手では、この精神のあり方、心の持ち方を、非常に大切にするからである。

だから、空手の真の達人というものは、きわめて健康であり、何物にも負けず、

何物にも動じない強い精神力を備え、しかも、円満で穏やかな人柄であるはずである。

逆にいえば、精神が軟弱で、ねじまがったような者には、苦難の連続ともいえる、

厳しい空手の修業をやりとおすことなど、とてもできるはずはないのである。

自ら身体をいじめ抜き、すり減らして、しかも目に見えぬ、得にはならぬ修業を、

なおもやめようとはせずにやり続ける苦しさは、とても言葉でいい表せるものではない。

それを、日々怠ることなく持続する意志、心の迷いを自ら戒め、断ち切る意志は、

並たいていのことでは身に着かないだろう。しかし、その強靭な意志ほど、

われわれ人間が生きていくために必要なことはないのである。

そのことの、大切さを、空手は、身にしみて教えてくれる。

すばらしいことではないか。

引用参考文献:

 極真空手の「基本」 史上最強のカラテを学ぶ人に(大山倍達著  みき書房)

 

 

<極真カラテとは何か>

故大山倍達総裁が創始されたカラテである。

極真とは「千日をもって初心とし万日をもって極みとする」という

武道の格言から発した名称である。

完成はないと言われるほどの厳しく険しい武道の神髄を極める意である。

 

<大山倍達>

おおやま・ますたつ 国際空手道連盟総裁・極真会館館長。

1923年、東京生まれ。9歳から空手を学び、中学2年で初段となる。

1947年、戦後初の全日本空手道選手権で優勝、生涯を空手に捧げることを決意し、

山ごもり修業や牛を素手で倒す(1950年、千葉県館山。倒すこと47頭、うち4頭は即死)など

の修業を続ける。

1952年には日本空手の代表として渡米、ウイスキー瓶を手刀で切る技は、

「神の手」(ゴット・ハンド)と称賛された。

1964年、空手界の常識だった寸止ではなく、

フルコンタクト(直接打撃制)による”実践カラテ”の極真空手を打ち立てるとともに、

国際空手道連盟を創設、現在140カ国に公認支部道場が置かれ、

門徒総数は1200万人を越える。

1994年4月、逝去。享年70歳。

 




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