特攻の母

知覧町中郡にあった、鳥浜とめさんの富屋食堂は

知覧文教所が開校されれて以来軍の指定食堂になっていました。

特攻隊員として知覧飛行場にきた隊員たちは、

鳥浜とめさんのことを、いつしか「おかあさん」と呼ぶようになっていました。

 昭和二十年三月、沖縄方面に対する特攻作戦が始まってからというも

の鳥浜とめさんは家財道具を売ってまでも、最後の思い出にと富屋食堂

を訪れてくる特攻隊員たちをもてなしたのである。

 以下は、鳥浜とめさんが隊員たちの思い出を語ったものです。

 

引用参考文献 知覧特別攻撃隊(村永薫編 1989 ジャプランブックス)

       


『隊員の人達の多くは、戦争をしてはならない、平和な日本であるよう
にということを言っていました。
 長野県の下平正人さんも、
「おかあさんと呼ばせてくれ」
と言っていました。当時十六歳だったと思います。かわいかったですよ。


 中島豊軍曹は、わたしに逢いたいために軍用トラックで来たんですが
わたしを見つけると急いで飛び降りたために、右腕をくじいてしまって
操縦桿を握ることができなくなったんです。わたしは、
「中島さん、腕をちゃんと養生してから征くんですよ」
と言ったんですが、中島さんは、
「この腕を養生しているうちに日本とは負けてしまう。勝たなければいけ
ないから」
と言うんです。わたしは、
「そんな腕でどうして征くことができるの」
と言ったんですが、中島さんは、
「どんなことをしてでも征ける」
と言い張ってききませんでした。手が動かせないので風呂に入っていない
ということでしたから、わたしはすぐに風呂をわかして入れてあげました。
背中を流していると涙が出てしょうがありません。
「おばさん、なぜ泣くの?」
と言うので、わたしは、
「おなかが痛い」
と言ったんです。すると、
「おなかが痛いんだったら明日は見送らなくていいです。からだを大事に
するんですよ」
と言うのです。髭をぼうぼう生やした人でした。そして中島さんは、六月
三日に、操縦桿と首を自転車のチューブでくくりつけて飛び立っていった
んです。


勝又勝雄少尉はとてもお酒の好きな人でしたが、わたしにこう言ってくれ
ました。
「おばさん、僕たちは年齢(とし)をほんのわずかしかもらえないから、
残りはおばさんにあげる。だからからだを大事にして長生きしてください」

 


 たった一人だけ「日本が負ける」と言った人がいました。園田少尉でした。
「そんなことを言うと憲兵が連れて行くよ」
と言ったら、
「もう自分たちは死ぬのだから、何も恐いものはない。ただ、征けという
命令で征くのではない」
という答えでした。そんな言い方をしたのは本当に園田少尉だけでした


宮川三郎軍曹は出撃の前夜、わたしのところに挨拶に来られ、
「明日わたしは沖縄に行き、敵艦をやっつけてくるから、帰ってきた時に
は、宮川、帰ってきたかと喜んでください」
と言うので、
「どんなにして帰ってくるの?」
と尋ねたら、
「ホタルになって帰ってくる」
と言うのです。そしたら、約束の時間にホタルがやってきたんです。富屋
食堂の裏に小川が流れていたのですが、そこに一匹の大きなホタルがやっ
て来て、白い花にとまったのです。本当に大きなホタルでした。思わず、
みんなに、、
「このホタルは宮川サブちゃんですよ」
と言ったんです。そして、みんなでそのホタルを見ながら、<同期の桜>を
歌いました。


特攻の方々が征かれるときにはにいっこりと笑って、嫌とも言わず、涙ひ
とつ落とされませんでした。さぞ肉親の方々にも逢いたかっただろうに、
日本を勝たせるために、早く征かなければとただそればかりを言っていま
した。』


戦死された方々の御冥福を祈り。

同じ過ちを二度と繰り返さないことを誓います。

 




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